今まで書き溜めていた日記を一気に公開します。なぜこの事業で起業しようと思ったのか、きっかけや経緯などを書いています。かなり長いですが、もし良かったら読んでください。
~起業のきっかけ 北海道自転車一人旅~
-2007年 太田哲平20歳の夏-
僕は2007年夏、自転車で一人旅をした。地図に載っていた写真の壮大な風景に憧れて、自転車で走ってみたかった北海道。まさか人生が変わる旅になるとは、この時は思いもしなかった。
サイクリング部(通称チャリ部)の夏合宿担当だったため、部員より一週間早く現地入り。鳥取から舞鶴港までを一日でチャリで走り、フェリーで小樽港まで。小樽から富良野までの計画コースの道の下見、約40人が泊まれる場所(キャンプ場など)の確保などをしていた。
夏合宿は、走行距離が長すぎたと部員からブーイングを受けつつも4日間の日程を無事に終了。
夏合宿終了後、昼食をとった後にみんなと別れた。ここから僕の一人旅は始まった。
合宿で通った道を逆走して、砂川市から美瑛まで一気に走る。食べたのにハンガーノックで死にそうだった。
夕方にスーパーに着き、夕食と明日の食材を買って、吹き上げ温泉まで走り始めた。
しかし、地図の標高を甘く見すぎていた。
まさか標高1000mも登るとは、、。最初の方は緩やかな傾斜だったので安心していた。そして街灯一つない真っ暗な坂道をひたすら登る。段々と傾斜がきつくなっていき、米を5kgまとめて買ってしまったことを後悔する。
山荘の灯りが遥か遠くの物凄く高いところにずっと見えていた。まさか、あの場所じゃないだろうと考えていた。追い越していく車でさえ、かなり苦しそうなエンジンの音がした。まだ半分も登っていないことを僕は気づいていなかった。もう少しだろうと思いながら走った。泣きそうになりながらもひたすら走った。真っ暗な夜道を。
実は熊が怖かった。
そして標高が上がるにつれ、汗をかいているのに寒かった。真夏の北海道、十勝連峰に雪が残っていることは、遠くから直接見て知っていた。今までの経験から、ちゃり部ライフで1,2を争う体力の苦しさだった。
標高1000mに近づいてからの最後の傾斜は言葉にできないほどだった。米の5kgの追加は半端ではなかった。当然、未開封の状態である。
山荘が見えて、登りきったことが認識できた。自分を褒めたいと思った。そして通り過ぎ、無料の吹き上げ温泉に到着し、凍った手足を解凍しながら、星空を見上げて、温泉を満喫する。
これほどまでに、温泉に価値を感じたことはなかった。
自分の力で登りきったから価値があった。車で来たら、感動はできなかっただろう。
その夜、テントで泊まり、朝もう一度温泉に入りに行く。温泉につかりながら、地元の人と会話する。熊が出るかどうか聞いてみた。この辺は出ないそうだ。知床に向かう予定だったので知床についても聞いてみた。山道を歩くと危険だが、国道に出ることはないだろうと言われたので、安心した。
国道で熊に出会うのは宝くじに当たるような確率で、鹿の方がよっぽど怖いと言われた。鹿は集団で横断し、跳んでくるので注意が必要とのことだった。さらに、一番の危険は車との交通事故だと言う。この会話は今でも頭に残っている。
危険因子は圧倒的に交通事故で、熊は怖いだけであって確率は低い。当たり前のことを改めて知っただけなのだが、このとき旅をしていた僕にとっては最も重要なことだったので妙に心に残った。そして認識を新たに、山を一気に下り、美瑛を観光する。
美瑛は写真の通り確かに綺麗だった。しかし、その風景を見ても思ったほど感動できなかった。
なぜなら、のどかな田舎の風景とは対照的にあまりにも観光客が多くて、雄大な自然というイメージでは無かったからだ。あの曲がりくねった細い道に、観光バスが大量に混んでいた。ちょっと憧れていた場所であっただけにショックだった。巡るルートなどが至るところに表示してあり、観光地化されていたので魅力を感じなかったのかもしれない。人が少ない時期・時間帯に来ればおそらく印象は違ったと思う。
旭川に向けて走り、無料キャンプ場に泊まる。この日は70kmしか走っていないことに気づく。朝に温泉でゆっくりしたから仕方ない。この日の夜は途轍もなく寒かった。
朝起きて風邪を引いてしまったことに気づく。
この日は小雨が降っていた。市街地を回避し層雲峡を走る。壮大な中国の奥地のような断崖の間を走るのはとても気持ちが良かった。
苦しい峠を越えて、知床方面に向けて走り、温泉に入り、また無料キャンプ場に泊まる。
朝起きて、また走り出す。この日は風が強かった。しかもずっと向かい風で体力は消耗するのに進まなかった。この日のキャンプ場は広いのにがら空きだった。理由は分かっていたが、テントに入ってしまえば大丈夫だと思っていた。テントを張り、寝ようとしたが、10分くらいで無理と判断。そう、この日は風の強さが半端なものでは無かったのだ。テントの場所を建物の壁にくっつける形で設置したが、それでも風の音がすごくて、疲れているのになかなか寝付けなかった。
起きたら、雨が降っていた。ご飯をいつものように火器で炊こうとしたが、この日も強風で火熱が横に逃げて難しかった。建物の壁を利用して何とか風を防いでご飯を炊くことに成功した。思えば、毎日ご飯を炊いて、レトルトカレーだった気がする。というか三食100%そのメニューだった。
向かい風の強風と雨、風邪にも負けず走り出した。はっきり言って無謀だったと思う。以前からチャリ部の先輩に知床の景色は綺麗と聞いていて、羨ましく思っていた。近道をして帰る方向に向かえばいいのに、知床半島に向けて走り出したのだ。この選択がこの日、人生を変えることになるとは、知る由も無かった。
どうしても知床の景色が見たかった。
ここまで自力で走ってきたんだから。
その思いとは裏腹に天気は最悪だった。雨は降ったり止んだりして曇っていた。若干の希望を残しながら。自分でもこの日、この天候で知床半島を横断しても何も見えないことは分かっていた。ただ、どうしても諦められなかった。
ウトロまでは快調に走ることができた。道の途中、橋の上から鮭の遡上を見ることができて、少しは満足した。水位が極めて低く、背びれどころか、上半分に近いくらい鮭の体が水中からはみ出していた。遡上というよりもほとんど前に進んでいるようには見えなかった。物凄い数の鮭だった。川の端では干乾びて死んでいる鮭もいた。命を残すための必死さが伝わった。
ウトロの道の駅で、朝炊いたご飯を食べて、知床峠に備える。昼飯を食べるころには雨は止んでいたので、安心していた。
ウトロの町を出て海岸線を走ると、いきなり急な上り坂が見えた。上り始めて数分後、霧雨が降ってきた。空を見るといつの間にか暗雲に覆われていた。霧雨なんて気にせず、カッパも着ずに半そで半ズボンで走り続けた。雨は気にならなかったが、向かい風が強かった。段々雨が強くなってきたので、途中で自転車から降りて、カッパを着て、雨対策の装備を自転車の荷物にもした。そして再出発。カッパを着ると体が動きにくくなり、さらに走る速度が遅くなった。
風邪をひいていたのがさらに悪化したらしく、頭痛がし始め、頭ががんがんいっていて、体もくらくらしていた。このときから霧雨からはっきりとした雨に変わった。常に向かい風の方向に進んだ。
雨が真正面から道路と水平に降ってきた。いや、降ってきたとは言えない。
まっすぐに向かってきた。
知床峠横断国道には2つの峠があり、その両方の峠とも標高700mを超えている。それも海岸線から一気に上るので、より過酷に感じられる。そして、強風の向かい風に上り坂というチャリダー(自転車の旅人のこと)にとって最悪の条件にさらに雨と頭痛が重なっていた。
もはや景色なんて絶望的だった。といよりもそれどころじゃなかった。モノクロ写真のように三角形の山がぼんやりと写し出されていた。かなり高くまで上った頃には、もう強風は嵐と化していた。一番軽いギヤで漕いでいるのに、ものすごく重い。時速3キロくらいしか出ていなかった。
風は常に一定ではなく、ときどきものすごい強風がやってきた。そのとき、踏ん張るが一瞬静止する。
やばい、こけるっ!!
と思ったところ風がまた弱まるというのを何度も繰り返した。道がくねくねになっているところで進む方向があちこちに変わる。風向きも横風になったり、追い風になったりした。
向かい風のとき時速3キロくらいだったのにカーブを折れた瞬間、突然ペダルが軽くなり、登坂にもかかわらず時速25キロくらい出た。しかし200mだけの間だった。その後のカーブでまた向かい風になり一気に減速して時速3キロに戻った。
風の強さを再認識させられた。
途中、エゾ鹿にあった。かなり近づかないと逃げていかなかった。一頭だけだったので良かったが、この後群れが横断するんじゃないかと思ってちょっと怖かった。
果てしなく続いた登坂もなんとか頂上にたどりついた。視界はゼロに近かった。実際には1mか2mくらいだったと思う。かなり霧が濃かった。
少し下ってまた上る。2つ目の峠はまだ楽だった。そして、ようやく本当の下り坂が来た。下り坂は一番好きなところである。普段ならば。
しかしこのとき、これほどまでに下り坂が嫌だったことはない。
霧に覆われていて、前がほとんど見えない。
雨が降っていてスリップしやすい。さらに急勾配な下り坂で本当に怖かった。手がかじかんでいたが、しっかりとブレーキを握った。
ほとんどスピードを出さずにゆっくり下った。ブレーキがもし途中で壊れたら、と思うと怖かった。前が見えない下り坂は最悪だった。前ではなく、斜め下を確認しながらハンドルをきっていた。道路の中央にある白線だけを目印に。
下り坂の途中、「熊の湯」という無料の天然温泉に入って全身の疲れを癒した。緑色の温泉で、かなり熱かった。一時間近く浸かり、再び走り出した。
下りきると、羅臼の町に入った。海岸線沿いの平地を走った。知床を上る方向と反対方向に進むためか追い風に変わり、体力は限界だったのに、気持ち良い速度で走り続けることができた。
もう日が落ちようとしている時間だった。
走るのをやめて、途中で泊まる場所を探せば良かったのに、一回も止まることなく標津の町まで走り続けた。かなり距離はあったはずだが、追い風のおかげで進んでしまった。知床峠を上るときに激しい向かい風に耐えてきたという思いから。つまり勿体無い精神だ、風の。
この風を勿体無いと思ったばかりに、とんでもないところに来てしまった。地図に書いてあった海岸に面した広いキャンプ場は何とか発見できた。そこで、キャンプ場の管理人に聞いてみた。
この町にはライダーハウスが全く無いらしい。
ちょっと高いが民宿ならあるらしかったが、ケチってしまった。キャンプ場には今日は一人も利用者はいないので、炊事場の屋根の下にテントを張っていいと親切に言われた。また、昼から何も食べていないので、この町にスーパーは無いのか尋ねてみた。町の地図を渡されて、道を教えてもらった。
まず、自転車から荷物を降ろし、テントを張った。そこであることに気付いた。横から雨が降ってくることに。海から激しく吹いている。今日は利用者がいないのは当然だった。テントをどう設置しても横から少しぬれてしまう。この激しい風が追い風となって、僕をここまで送ってきたんだな。
わざわざキャンプ場じゃなくても、屋根のあるところならどこでもテントを張れたはず。しかし、泊まる場所を探す気力は無かった。
とにかく、雨と風と寒さで凍えていた。
一旦テントに入って、寒さを凌ごうとした。しかし、合羽を脱いでも全身は完全に濡れていた。荷物を軽量化するために、唯一の防寒着は合羽だけだった。その唯一の防寒着は乾いていればそれなりに温かいが、今回は完全に濡れていた。
合羽は普段ならば、多少の雨なら弾いてすぐ乾くのだが、長時間強い雨風に晒されたおかげで、もはや合羽として機能していなかった。
結局テントの中、雨で濡れた半そで半ズボンで10分くらい寒さに震えながら耐えようとした。
確実に空腹だったはずなのだが、寒さでずっと震えていて空腹を感じなかった。しかし、明日の朝飯のこともあるので、スーパーの位置を折角聞いたのだから行ってみようと思い、行動した。もしここで我慢してテントで寝ようとしてたら、どうなっていたかと思うと怖い。
疲れ果てて寝てしまったら、死んでいたかもしれない。
標津町で唯一のスーパーマーケットをようやく辿り着いた。
全身の服装が完全に雨で濡れていた。さすがにこれでは店に入れないと思い上の合羽を脱いだ。できるだけ水滴を手でふり払ってから半袖のTシャツで店に入った。
今思えばどちらにせよ、店の床に水滴が落ちることは大して変わらなかったと思う。店の人に申し訳ない気持ちで店に入った。今生きるためには仕方ないと思って。気温は低かったはずなので、半袖は実は寒かったが、合羽も完全に濡れているのであまり変わらなかったかもしれない。半額を買占め、買い物を済ませようとする。
すると、店長らしきおじさんに笑顔で話しかけられる。どこから来たか、とか大学はどこかなどを聞かれ、少しだけ世間話をした。その後ゆできび(とうもろこし)をサービスしていただいた。
レジに行こうとすると、スーパーのおばちゃんに心配そうな目で見られ、話しかけられる。
「風呂にはもう入った?」
「いえ、まだです。」
「風呂に入って行きなさい。」
???
僕はこのとき、どういう意味なのかよく分からなかった。近くに銭湯があるから行きなさい、という意味だととりあえず思った。場所を教えてもらえるのかと。
よくわからないまま返事をする。
「はい。」??
自宅の風呂に入らせてもらえるということだったらしい。スーパーの裏側が家になっており、自転車を裏側まで運ぶ。
荷物の中まで完全に雨水で濡れていた。
スーパーのおじさんとおばさんは笑顔が素敵な老夫婦だった。といっても結構若いので老夫婦といっていいのか微妙だが。
「荷物も乾かしていきなさい。」
えっ??荷物ってそんなにすぐ乾かない気がするけど、いいのかな。と一瞬思ったが、次の瞬間、
「今日はここにとまりなさい。」
「えっ!いいんですか?」
頭の中では、かなり遠慮していた。しかし今回ばかりは本当に自分の命の危険があるので、親切を断って遠慮するという選択肢は残されていなかった。というよりも、迷っている時間を与えないほどに行動が迅速で、何も僕が返事をしない間に、すべて決定したので、流れに身を任せたというのが本当の所だ。
「犬も歩けば棒に当たる」ということわざが頭に浮かんだ。行動して良かったと心から思った。このときテントから出なかったら、この後の人生は無かった。
着替えのジャージまで用意していただいていた。着替えはパンツだけが唯一ビニール袋で防水されていて生き残っていた。あとは全滅だった。すべて洗濯機行きだった。
風呂は温かかった。
そして人の心はもっと温かかった。
凍えていた体が、今ではぽかぽか温かい。
これは現実なんだろうか??
風呂から上がると夕食が用意されていた。本当に至れり尽くせりだ。ついさっきまで死ぬか生きるかの瀬戸際にいたとは思えない。そこには平和な世界が広がっていた。
「遠慮せずに、たくさん食べて。」
「あ、ありがとうございます。」
書き忘れていたが、泊めさせてもらえるという話が出たときに、キャンプ場にテントを張ってきてしまったことを伝えた。
夕食を食べ終えたあと、軽トラでキャンプ場まで送っていただき、テントを解体せずにそのまま荷台に乗せてから戻った。
この時、まだ午後9時だった。8時の閉店間際に来たから運が良かったらしい。温かい風呂に入り、おいしいご飯をいただいたおかげで、限界だったはずの体力は不思議と回復していた。
そしてここからが起業と直接的に関係する。
隣の建物でご夫婦の長男さん(以下Kさんと書くことにする)が副業で看板屋をされているらしく、良かったら隣に遊びに行ってみてと言われた。他にすることも無かったし、何より面白そうだと思ったので行ってみた。
僕が何故泊めさせてもらうことになったのか事情は既に大体聞いているらしかった。
ドアをノックして、
「こんばんは。」と言って入った。
すると、
「おぉ。パソコン使える?」
いきなりこう聞かれるとは予想外だった。パソコンはよく使っているし、割と得意だと思っていたので、
「はい、一応。あっ、でもどのレベルで使えるか分かりません。」
と答えた。すると、
「イラストレーター使える?」
イラストレーター??聞いたことの無い単語だった。
「いえ、分かりません。」
「ドローソフトとかペイントソフトとかは?」
げっ全然分からん。ペイントソフトって聞いたことあるけど、使ったこと無いかも。
あー。「はい、一応」なんて言うんじゃなかった。
今まで趣味の範囲でしかパソコン使っていなかった。
「すみません。やっぱり分かりません。」
と答えた。が、
「大丈夫だ。大学生ならすぐできるようになる。」
と言われた。そうなのか??と思ったが、パソコンに関しては、自信なくなった。
パソコンなら少しは役に立てると思ったのに・・・
全然手伝える仕事がないのではないかと不安になった。
よく室内を見渡すと、今まで見たことの無い機械や様々な色のカラーシートがあった。このカラーシートはカッティングシートと言い、これをこの機械でカットして文字や図形を切り出すらしい。
初めて見るものばかりで機械好きな僕には楽しかった。パソコンでデータを作れば、データどおりにこの機械でカットできるらしい。
そして今から仕事を手伝うことになった。この時は工事看板を張り替える仕事だった。工事看板って今までペンキで書いてあるのだと思っていた。まさか文字の部分がステッカーだとは思わなかった。
カッティングシートの余分をカッターナイフで切ったり、デザインナイフで剥がしたりする手作業の部分を手伝わせてもらった。
Kさんは午後8時まではスーパーの仕事があるので、副業の看板屋の仕事は午後8時から深夜0時までの夜間の4時間だけしか時間がないらしい。そして、この時はすべき仕事が溜まっていたため、僕が来たことは人手が増えて良かったと言っていた。
午後11時頃に雨が物凄く激しくなったのを建物の内側から眺めていた。本当に助かったとまた思った。別世界に来たような不思議な感覚だった。その後、12時過ぎにスーパーに戻り、2階の部屋に泊まらせてもらった。
一ヶ月ぶりにふとんで寝た。
テントと寝袋で外の音を聞きながら風に揺られて寝る生活が嘘だったみたいだ。雨、風、寒さから完全に護られた部屋の中、温かいふとんで最高に良く寝ることが出来た。
この日はものすごく長い長い一日だった。
この日を境に人生が変わった気がした。
朝起きて朝ごはんをいただき、スーパーの手伝いをすることに。午前は仕入れの仕事で野菜の入ったダンボールを運んだり、店頭に並べたりした。5人くらいのパートの主婦に交わり世間話をしながら仕事をした。事情はすでに知っているみたいで楽しく談笑しながら働いた。なんかほっとした。温かい雰囲気だった。スーパーでのバイトは初めてなので新しい発見が多くて楽しかった。
缶ジュースやビールなどのドリンクを陳列するため、店の後ろ側から冷蔵室内に入った。今まで冷蔵室内に入れるって知らなかった。そして売り切れそうな種類のペットボトルや缶コーヒーをならべていたときのこと。買い物客のおばちゃんがドリンクコーナーのちょうど僕の正面のガラス戸を開けて
「これ、ポカリかいね?」
と聞いてきたので、
「はい、そうです。」
と笑顔で答えると
「わっびっくりした。」
と驚かれた。
どうやらひとり言だったらしい。店内から冷蔵室内は暗くて見えにくい。
偶然正面にいたので僕に聞いてきたのだと勘違いしてしまった。
午前中の仕入れが終わると午後からは人手は足りているらしく、看板屋の仕事を手伝った。いろいろ教えてもらってから、一人でできる仕事を任せてもらった。
僕にとって看板屋の仕事はかなり楽しかった。
夜は車で標津よりも大きな町、中標津町に行き、看板を運んだり、ステッカーを貼りに行ったりを手伝った。町のレストランとか、温泉、歯医者の大きな看板、営業車のステッカーなど中標津の様々なところで目にする看板はKさんが作ったんだと教えてもらって知った。
街の風景の一部である看板のデザインも自らの手で作り出していて、この仕事は面白そうだなと羨ましく思えた。
一日が終わり、新しい経験がたくさんできて物凄く充実した一日だった。昨日の知床峠での嵐の世界は一体??というくらい世界は変わった。今日も温かい布団で寝る。居心地があまりにも良くてここを出て行きたくなかった。幸か不幸か天気予報では今週かなり激しいらしい台風9号が日本に上陸し、北上してくるとのことだった。
結局好意に甘えて一週間この生活を送った。
僕の中での大きな変化は居候生活4日目に訪れた。
Kさんが着ているジャンパーの背中に大きくスーパーの店&看板屋のロゴが綺麗にプリントしてある。それはどうやってプリントしたのか聞いてみた。
するとプリント素材はステッカーのシートではなく、布専用のプリント素材のシートを用いて、ステッカーと同じように機械でカットした後、プレス機で熱と圧力でプレスして完成するらしい。
この後、今までに作ったプリントTシャツも見せてもらった。綺麗にプリントしてあり、プリント部を引っ張ってみたが確かに剥がせそうになかった。
ここまでは単に興味があって聞いただけだったが、ふとちゃり部のことが頭に浮かんだ。
「あっ、そういえば、、ちゃりT!」
「ちゃりT」というのは僕が所属しているちゃり部の「ちゃりんこ命」と大きく背中に書いてある黄色のTシャツでユニフォームのようなもの。
これは業者に注文したとき5000円もして高いと思っていた。学年が上がり、後輩が入ってきたときに今度は買わせる立場になったときに、入部金よりも高いお金を払わせないといけないのは、後輩に対してなんか申し訳ない気がしていた。
Tシャツなんだからいくら質が良くたって、絶対もっと安くできるだろうと思っていた。そのとき、ちゃりTはバッグの中に持っていたので比べてみた。するとちゃりTと同じプリント加工方法だと分かった。この方法だと枚数が少なくてもかなり安く作れる。一枚2000円もあればかなり予算に余裕がある。
しかし、機械がないと作れない。
機械を買うお金がない。
そのことを話すとKさんが
「それならEメールでカットするデータを添付して送ってくれれば、俺がカットだけをここにある機械でしてそのカットしたシートを郵送するから、機械がなくてもできるよ。機械を動かすだけだったら、その手数料はかなり安くできるし。いやー本当にブロードバンドの時代はすごいよな。これを利用しない手はない。こっちではTシャツの方の需要はあまりないけど、鳥取の方でそういう需要があるんだったら、やってみたらいいと思うよ。」
という返答だった。
このことに僕は二つの点で衝撃を受けた。
一つはインターネットのことを当たり前にあるものだと思っていたから。今まで全然使いこなせてなかった。データのやり取りとして考えると、今までCDを郵送するしか手段がなかったものが無料で瞬時に送れて、しかも相互受送信できるからやりとりがスムーズにできる。これは当たり前のものなんかじゃない。すごい。インターネットが有ると無しではビジネスにおいて決定的に違う。
もう一つはビジネスを始めるのに必ずしも多額のお金や機械が要るわけではないこと。無くても契約によって機械を使うのと同じことができる点。なんか考え方が広がった気がする。
もしかしたら他のサークルでもオリジナルTシャツに関して同じ思いなんじゃないかと思った。
そうだ!Tシャツプリントの会社を作ろう!
まさか自分にこんな野心があるとは思わなかった。
最初に思いついたときは何一つ知らなかった。
Tシャツプリントの会社がこんなに多く、競争の多い業界だということを。
もしこのことをよく調べて知っていたら、起業しようとは思えなかったはず。
偶然、鳥取には安くて知名度のあるTシャツプリント専門の会社はなく、主に仲介業者だけだった。これは他社よりかなり安い値段設定にしても採算がとれる!
よし、やろう!
思い立ってからすぐに鳥取に帰りたいと強く思った。鳥取に着いたらすぐに始めようと意気込んでいた。
このときから夢ができた。部活以外のことは、なんとなくで適当に送っていた大学生活。このとき世界がぱっと開けた。何の目標も夢もなかった暗い未来が明るい未来に変わったように思えた。
人並みに大学に通って、中途半端に勉強したりしなかったりしていた今までの自分の人生が平凡すぎて嫌だと感じていたが、まさかこんな展開になるとは夢にも思わなかった。
大きな賭けに出よう!
このとき最高にわくわくした。
そして寝付けない日々が一週間ほど続いた。布団に横になってから活動内容の詳細を考えていたらいつの間にか6時間くらい経っていて、徹夜になってしまうということが度々あった。
このときは成功するイメージしかなかった。少しの疑いもなく。今考えれば、何故こんなに楽観的に考えられたのか不思議なくらい。思うようにいかない要因なんて沢山あったはずなのに心配どころか、失敗する要因なんて少しもないと思っていた。
帰り道は標津▶釧路▶帯広▶苫小牧港▶▶▶フェリー▶▶▶敦賀港▶鳥取のルートでフェリー以外はすべてチャリ自走で一週間かかった。
鳥取についてからすぐに行動を開始した。
北海道編 完